出だし・末尾録音不良

昭和52年08月05日 朝の御理解



 出だし録音不良)
 頂きましたときに、えぇ「此方の行は家業の行」と。今自分が頂いておる、言うなら天職とも言うその行に、本気で取り組ませて、一生懸命働くことなんだと、と言う事だけが行ではない、それは行であるならば、矢張りその行をさせて頂いたと言う事が、心からお礼が言えれる、言うならば一日を締め括った時にです、例えば朝から晩まで一生懸命働いた、それこそ「朝のすがすがしさ」、朝の御祈念にも参らせて頂いて、そしてその御教えを元にして、もうそれこそ「昼のいそがしさ」という。
 一生懸命のところを通らせてもろうて、夜は「本当に今日はけっこうな修行をさしてもらいました」と、その心からお礼が言えれるというその、有り難いというもの御理解三十九節ね、いわゆるサンキューという、有り難いというお礼が言えれる日々であって初めて家業の行だという風に頂きましたですね。いわゆる一日をしめくくって「はぁぁ今日もきつかった、きつかった」と「もう今日も本当に、馬鹿らしい一日だった」と、言った様なものではなくて、ね、
 どういうそりゃあ普通で言うなら馬鹿らしい、言うならば一日であってもです、それを修行と思うたら、きつければきついほど「結構な修行さして頂いて、有難うございました」というお礼が言えなければならない、というのがこの家業の行だと、ね。「金光様のご信心はもう仕事そのものが行だから」と言うて、そのお参りしない人があるです、ね、お家で一生懸命働く事その事が信心だから、なるほどそれが信心であり行なのですけども、果たして一日を締め括った時に、心から「有難う」が出るか?と。
 「有難うございます」と感謝の心が湧いてくるような一日であったら、確かに神様がそれを行として受けて下さるという事なんです。私は今日はそこん所を、ね、そんなら家業の中にです、色んな言うなら問題があります、商売で言うならば、商売は不振であるとか、ね、金銭のお繰り合わせが頂けないとか、ね、売掛金がとれないとか、まぁ様々な難儀があります。お商売だけの事ではありません、お百姓さんでもそうです、ね、折角作った野菜が本当にもう二束三文と言った場合もありましょう。
 折角言うなら蒔いた作物が、ね、言うならば雨やら風やらで、かえって被害を被る、と言った様な事もありましょう、そういう時にですね、「私の信心がいたりませんから」と、謙虚に詫びるという事も素晴らしいですね、けれども私は同時にその事に対して、お礼が言えれるという事です、ね、今日もお金をつくる為に一生懸命金策してもらったけれども、とうとうおぉ出来なかったという時にです苦しいです、ね、ですから本当に私の不徳が、私のお粗末ご無礼がこういう。
 苦しい事になって表れておるという事を思えば、自分だけの迷惑じゃない、自分の周囲の人達にも迷惑かけんならん、本当に相すみません、周囲からはもうそれこそやのつけ火のつけの、言うなら催促を受ける苦しい、ね、これはもう何て言うても私自身が、もうぎりぎりの言うならば金銭での、おぉ苦しい所を通りましたから、確かに昔の人が良く言うた、ね、もう四百四病の病より貧より辛いものはないと言うが、もう金に追われるぐらい辛いことはないです。苦しい事はないです、ね。
 けれどもねそういう辛い修行でもです、それを修行と頂けた時には、いわゆる「結構な修行をさせて頂いて有り難うございました」と言う事になるです。昨日はあぁ私昨日御神前で、頂いた御理解を皆さんに聞いて頂いたですよね、あの三味線の一番上の糸巻きの所あそこを天神と申します、だからその天神がこうとれておる所を頂いたから、ね、私共の心の中にいつも、ね、神様を頂ききっておる様であって、頂ききっていない、言うならもうすでに神様が離れてござるんだと。
 いや神様が離れなさることはないけれども、こちらの心が離しておるんだという、御理解でしたよね、そしたら昨日、あぁまぁ何時もの事ですけれども、あのおぉ次々とあの三味線のお知らせを頂いたという人があるんです、この合楽食堂の中村さん、それから高橋さんところの奥さんが、昨日の朝三味線のお知らせを頂いた、ね、高橋さんところの奥さんが頂いたのは、あのお神さんの部屋に、居間につづいてあのお神さんがございます、見事に奉斎してあります。
 ところがその部屋にそれこそ、もう素晴らしいその色男だそうです、それこそ浴衣がけに角帯をしめる、そして一ちょの三味線を持って、でそこに座られた所を頂いたという、どう言う事でしょうかっち、そりゃやっぱ今朝の御理解でしょうねと、ね、取り分けその素晴らしいその良か男じゃったと言う事は私じゃろうとこう言いました(笑いながら)ね、どういう訳で浴衣がけじゃったでしょうかっち、三味線を持ってさぁ今から稽古ぞと、教えるという時に、紋付袴着けちから教える師匠はおらんよと。
 舞台にでも出る時には、紋付も着けよう袴も着けようけれども、例えばならあんたかたの家内に、本気で合楽の信心の稽古を付けてやろうという時、ね、だからその良か男やったっちいうのは私のことじゃろうと、やっぱりこれはそうです師匠でもそうでしょうが、自分が矢張りもうそれに言うならばもう惚れこんだ師匠でなからなきゃ上達しませんです、ね、こげな人から習わなんじゃろかと思うたらもう稽古にはならんです。
 信心でもそうですよ、もう家の先生の否ばっかりが見えて、家の先生があああってもらうといいけども、もっとこげんあってもらうと良いけれどもと言われるような先生と、信者であったらもうおかげは頂かんです、もう家の親先生が日本一と、もう親先生にひかれて合楽に参りよると、例えば言うような人達が、合楽に多いからおかげを頂くのです。ね。ですから先生がわざわざ、言うなら出向いて行って教えようと言っておられるのだから、本気でこっちも習う気にならにゃぁいけんて。
 ただ苦しいとか辛いとかと言わずに、その苦しい事辛い事を信心でならどう頂くか?合楽理念はここをどう頂くように説いてあるかという風にです、稽古させて頂くことだよと、申しましたことでした。この中村さんの場合は、もう三味線の稽古をしよる、それがこう持ちますよね、大体は。それをこう持っとるげなもん、反対にそしてそればひっくりがえちゃるげなもん、それでひけち言われるばってん、どげんしてんひけんそりゃあひかれんめぇっち私言うた、ね。
 中村さんあんたの信心はちぃっとばっかりね、持ちをかえんとね、持ち方をかえんと、自分でわざわざ難しい方へ難しい方へと取ろうとする向きがある、今日はそこん所を聞いて頂きたいのです。ね。例えば難儀なことがある、困った事がある私の信心がいたりませんからそれば、例えばお詫びばっかりしておるような信心では、しめっぽい難しいそれよりも同じ事柄をです、ね、「今日も結構な修行をさせて頂いて有り難うございました」と、「お礼ば言いよるととは、大変違おうが」と私は言いました。
 三味線を持ちかえなさい、信心を頂き頂き変えなさい、ね、ね。こう持たなならんとを反対にこう持っとる、しかも裏返しにしとるけんそりゃぁひかれんですよ、けれどもねこういう様なことで、あの信心が一っつも進展しない人があるように思うですね、信心を難しゅうばっかり頂いていこうとする人があるです、ね。自分を愈々つまらんつまらんという、まぁ屑の子の自覚と言う事が言われますから、ね、だから信心を難しゅうするだけじゃいかん、ね、「はぁ本当にこういい思いよったけども。
 こりゃあむしろ反対にお礼を申しあげなならんことたい」と気付かせて頂いた時に、なんか明るいものを感じますでしょうが、もう何時までこげな貧乏せんならんじゃろうか?と例えば思います、しかもその貧乏の苦しみというのがね、自分のめぐりのせいである、とこういう風に頂く人があります、なるほどそれも間違いないですね、だからね本当に「やれ痛や今みかげを」だと仰るのだから、ね。
 そういう苦しい事によってめぐりのお取り払いを頂いておると思うたらお礼が言えれる、いやそれを修行と頂いた時には、いよいよ有り難い修行、それこそ「朝のすがすがしさ、昼のいそがしさ、夜の有り難さ」と言う事になって来るのです、もう今日も一日足を棒にして、言うならば周りましたけれども商売はぜんぜんでけませんでした、集金は一つもでけませんでした。
 あもうへとへとするように今日は、になるまでお使いまわしを頂きましたが、ね、結構な修行をさせて頂いて有り難うございましたと言う事になったらどうでしょう、それが家業の行だと、今日はそこを分かってもらいたいと。家業の行というものは家業そのものをです、有難く頂いていくと言う事なんですけれども、そんなら有難く頂けないことも沢山ある、苦しい事も辛いこともあるんですけれども、
   (末尾録音不良)